カニ+ツナ=?

好き勝手に書きます

なぜ悲観主義に陥るのかを自分なりにまとめてみる。

皆さんの周りにも存在するであろうこんな人間。

  • 他人を羨み妬み周りに被害を与える人間。
  • 話題が愚痴ばかりで自分の不幸話が大好きな人間。
  • 幸せになりたいと言いながら自ら破滅へと向かう変人。
彼らを悲観主義として話を進め、私の経験をもとにまとめてみます。
 
また、目次の(自分語り)はあまり気分がいいものではない可能性がるので、苦手な方は読み飛ばしてください。
また、文章には主観と根拠のない文が混じっております。ご了承ください。

 

 この記事のターゲット

  • 人間関係を主にして悲観主義に走る人間
  • そんな人間に振り回され、その原因を知りたい人間

主に悲観主義に陥っている私自身の経験の元、同様の人間には何か解決の糸口がつかめるようにと、周囲の人間側の方にはこんな思考の元、不可解な行動を行っていると伝えることを目標とします。

きっかけは何か(自分語り)

おおよそ悲観主義に走るには何かしらの理由があるはずです。仕事、恋愛、友人関係、学業・・・どの分野においても悲観主義に陥るきっかけは存在します。

私の場合は

  1. 中学時代の人間関係の破綻
  2. 大学においての資格試験の失敗

この二回において悲観主義に陥りました。二回目の失敗は現在においても大きな影響を残し、現在進行形で解決に向け思考しています。

この記事内では二回目の私の悲観主義に着目しようと思います。(一回目は関係した人間に迷惑がかかるため、ここでは記述しないことにします。)

 

さて、私は資格試験に落ちたとあります。正直、こんなことで?と思われるはずです。資格なんていつでも取れますし、取れなかったからって死ぬわけではないです。では、以下にそのプロセスをまとめてみます。

きっかけは引き金でありその原因は複数である(自分語り)

実はきっかけが直接原因となることはあまりないのではないかと思います。大方、きっかけよりも前に何かしらの不安要素の重なりがあり、ちょっとしたきっかけでその不安が耐え切れなくなるのだと考えられます。私の場合の流れをまとめてみます。

 

  1. 元々自動車が好きだった私は、自動車関係で友人繋がりがありましたが、私自身の知識不足のため話についていけなる。
  2. そのため必死に自動車について勉強を重ねたものの、全く太刀打ちできず、勉強として触れる自動車が嫌いになったため勉強をあきらめる。
  3. 友人に対して劣等感が芽生える。自動車つながりでつながった人間が自動車の話ができないのは何かいけないような気がする。(被害妄想)
  4. 資格試験を通して友人に一置かれたいと思い、友人たちとは違う分野である情報処理を勉強する。
  5. 同時期に未挑戦だった分野に飛び込む。素人ながらチームの一員となる。
  6. 資格に落ちる。必ず成功すると確信していたため完全に燃え尽きる。
  7. 自動車の分野でも、情報系でも、新たな趣味でも何一つ成功しなかった自分に対して何の存在価値があるのかがわからず荒れる。

多少の端折りがありますがざっとこんなものです。ただ、よく見てください。この流れが全く前後のつながりがないように見えるならば、(支離滅裂に見えるならば)あなたは悲観主義とは少し離れたところにいるようです。逆に共感した人は残念ながら私と同類です。共に解決に向け頑張りましょう。以下ではその詳細と、根本的に何が引っ掛かっているのかを考えてみます。

プライドと劣等感

この項目では上の項目の番号に照らし合わせてどのような思考が働いたかを示していきます。

さて、1について考えてみます。

ここでは私は自分が友人たちと同様なくらい自動車が好きだと自負していました。しかし、現実として私は知識が足りないことがわかりました。

本当はそれでもいいんです。友人たちは私をのけ者にしたわけではありません。歓迎してくれていました。

しかし、私が友人よりも劣っていると思われたくなかったのです。

 強情なプライドが私を変えてしまいました。そこから2・3につながります。

 

自分ができないと信じたくなかった私は勉強をしましたが、はっきり言って苦痛でした。それもそのはずです。無理やり叩き込むほど嫌いになっていきます。そのうち本気で本を読みたくなくなり、友人たちの会話を傍から聞きながら「なぜ私はできないんだろう、きっと駄目な人間だ」と考え始めます。

ここが劣等感と被害妄想の始まりです。すべて自分の中から始まっているのです。

4について考えます。ここから始まったのは劣等感からの逃避です。自分ができないことをできないと認めたくなかったため、とうとう別分野に逃げます。新たな分野を勉強しているとき、最高に楽しかったです。他に比較する人間もいないため劣等感が芽生えることもなかったためです。しかし、どうしても一目置かれたかった私は資格試験を受けて、私も分野が違うけれども君たちの役に立てるほどの知識がある、と証明したかったのです。

5は、4がなければ誘いにも乗らなかったでしょう。正直、図に乗っていました。勉強すればきっと私もさらに友人たちにすごいと言われるのだろうと思い、オファーを受けました。現実、そんなに甘くないのだと知りましたが。

6が大きな問題でした。ただでさえ劣等感の塊だった私がそこに不合格という名の否定をもらったらどうなるでしょうか。・・・お察しです。

そして7、現在です。現在進行形で直面しています

悲観主義の問題点

さて、ここから問題点について考えます。

はじめに悲観主義者と一緒にいて楽しい人間はいないはずです。

少々きつい言葉ですがこれが現実です。気が滅入りますから。

なので悲観主義者が人望がないと嘆くのは非常に滑稽です。私も含めていろいろずれているんです。

残念ながら私には悲観主義者が幸福になれるかと言われれば、私には"YES."とは答えられないです。

それに、物事は何だって悲観的にとらえられますから、幸福さえも不幸に塗り替えられます。友人の誉め言葉が皮肉に聞こえるあの現象です。楽観主義者は事実どうであれ、彼らはすべてを幸福に塗り替えるのです。我々には恐れ知らずの大バカ者に見えますが、我々よりもずっと幸福であるように見えます。

それゆえ、どうしても状況を好転させたくない変人以外は楽観主義にならずとも、悲観主義から脱するべきだと考えます。

悲観主義の危険性

今度は悲観主義の危険性を考えます。

人間誰しも落ち込みますし、ポジティブな人間だって泣くときはあります。

しかし我々と何が違うのでしょう。

それは自己否定・劣等感と被害妄想です。

私は自己否定・劣等感と被害妄想は密接に関係していると考えます。

自身を否定することで劣等感を生み出し、被害妄想につながります。

自分が駄目な奴だからこう思われるんだと疑い、他人が自己を危害を加える・見下してくるのだと感じるのです。

劣等感がなくとも被害妄想は生まれるのではないかと考えることもできますが、被害妄想が生まれる可能性は劣等感がない場合と比べ、格段に上がると考えます。

それは自己監視と他人監視です。

経験上、自己批判は半ば病的なまでに自分を責めます。反省する以上に言いがかりに近い自己批判を繰り返します。加害妄想に近い感情を抱く場合があります。そして自分を徹底的に監視し、此処が駄目だと信じ込みます。

同時に他人の行動を監視します。他人のわずかな表情の変化を根拠もなく自分の責任として受け取るのです。たとえそれが理由なく目を細めただけでもです。

そして一番恐ろしいことは被害妄想故に他人を疑うことです。

悲観主義に陥ると否定的な言葉のみを信じます。

会話中に誉め言葉があってもお世辞ととらえ、わずかな否定を目の色を変えて、

「やはり私は駄目なんだ。彼は私を否定した。嫌っているんだ。この関係は長くはないだろう。」

と全く身勝手な解釈を行います。

悲観主義者は利己主義者です。自ら自分の首を絞めておきながら他人を責め、同情させようとするのです。

こう書くと、批判を受けそうですが私はこう書かれた記事を見て否定できませんでした。残念ながら、私たちは何としてでも悲観主義から脱しない限り他人に危害を与えるのです。

悲観主義との付き合い方

ここからは完全な主観ですが、どのように悲観主義と向き合うかを考えます。

個人的に解決するには以下の方法が良いのでないかと考えます。

・自己否定を無くす。

・逃避する。

・とにかくやる。

まず本当に大事なことは自己否定の解消です。自己否定の解消には比較をやめること、また、比較をやめるにはそれ相応の自信を持つように継続することです。

・・・それができたら苦労はしないですが。理想論です。

しかし最終的には自信を持つことでしか悲観主義に打ち勝てないと考えております。我々が見ている羨ましいような友人たちの栄光も、私たちが見ていないだけで数々の努力をしていることを忘れてはならないのです。

まずは自分には無理だと思わないことが解決の一歩になるのだと思います。その不可能を可能にしたとき、少しだけ頑張れるような気持ちになるのです。

私も趣味で不可能と思っていたことを完璧でないにしてもなんとかしたとき、もう少しだけ頑張ろうと思えました。完璧主義の脱出も必要なのかもしれません。

逃避も手段のうちの一つです。やりたくなければやらないでいいんです。本当に好きならばきっと戻ってきます。戻ってこなくてもいいんです。また他に好きなものでもゆったり探せばいいんです。

また、理由なんて考えずに無心でやるのも手です。それが何にせよ、不貞腐れて行動しないよりかは気がまぎれるのだと思います。そのうち技術やら経験やらが勝手にたまっていつの間にかできるようになったりしています。

終わりに

いかがでしたでしょうか。かなり主観と経験を元に書いているのでここが違う、などがあると思います。それでももし、私の文章が何かの役に立てるとするならば幸いです。

そして、人生は平等に時間が与えられるのです。だとしたら楽しんだ方が得のような気がします。我々だって幸福を追求する権利くらいはあるはずです。

私は悲観主義で悩む人たちが幸せになれることを祈っております。